読んでみて。嫌われる勇気

子供の人格や存在意義を否定したり、共依存関係になることで子供を支配する毒親。

私はそんな毒親だった母と決別して、今は息子と二人暮らしをするアラフォーのシングルマザーです。

先日、ずっと避けてきた「嫌われる勇気」という本を読みました。

そう。ずっと、怖くて読むのを避けてきたんです。

何が怖かったか?

それはタイトル。

今回は、毒親家庭出身の私が嫌われる勇気を避けてきた理由、読んでみた感想、人におすすめできるかどうか、などをお話します。

興味のある個所だけ読んでみて頂けたら嬉しいです。

私は嫌われる勇気を読みたくなかった

私は嫌われる勇気を読みたくなかった

嫌われる勇気は発売後、どんどんと売れ続け、2015年・2016年と2年連続ベストセターになりましたね。

テレビなどのメディアでも度々取り上げられ、とてもいい本だと絶賛されていました。

でも、その時から私、そのメディアを見るのも嫌だったんです。 嫌われる勇気が発売されたのは2013年。

私が嫌われる勇気を認識したのが大体2015年くらいなので、実に6年余り避け続けたことになります。

何故、嫌われる勇気を読みたくなかったのか?

どうして読みたくなかったか

私が嫌われる勇気を読みたくなかった理由、それは、タイトルが怖かったから。

「嫌われる勇気」というタイトル。

きっと、「嫌われることを恐れず、自分の言いたいこと、言うべきことを言いなさい」なんて言われるんじゃないかと思ったんです。

そして、それを言われることがその頃とっても怖かったんです。

なぜ「嫌われる勇気」が怖かったのか?

何が怖かったか

なぜそんなにも私がこの本のタイトルを恐れたのか?

それは、嫌われていたから。

その頃の私は、離婚して実家に帰った後、元夫の離婚や自宅売却を妨害するかのような動きに疲れてしまっていた時期。

と同時に、毒親からの毎日の叱責に胃を痛くしていた時期です。

特に毒親から毎日のように私の考え方や子育てを否定され、なのに助言を求めたら拒否されることを繰り返していた私には、これ以上「嫌われる勇気をもって行動」することが恐ろしくて仕方がなかったんです。

これがきっと共依存するということなんでしょうね。

怖かった。必死に毎日何とか生きているのに、今の自分を本に否定されて、もっと頑張れと言われたらどうしよう?

あなたの考え方は間違っている。生き方を変えなさい。毒親に言われていることを、更に本にまで見せつけられるのが怖かった。

それほどに私は自分に自信がなく、自分というものを卑下していたんですね。

今振り返って考えてみればそれが毒親のやり方で、私はまんまと毒親の思う通りの動きをしていたわけなのですが。

どうして怖かったはずの嫌われる勇気を読む気になったのか?

そんな私がどうして今になって嫌われる勇気を読もうと思ったのか?

それは、音声配信アプリ、スタンドエフエムでライブ配信をしているユーザーさんの話に、嫌われる勇気の本がとっても前向きな表現で紹介されているのを聞いたから。

スタンドエフエムについて、詳しくはこちらをご覧ください。

怖くて避けてきた本を、とても優しく前向きになれると、信用しているユーザーさんから紹介されたのを機に、改めてこの本に向き合ってみようと考えるようになりました。

自分自身の精神状態が、毒親からもモラハラ元夫からも離れたことで、とっても穏やかになって、本に向き合える状態だったことも大きかったと思います。

ずっと怖いと思っていたけど、それってタイトルに対して自分が勝手に先入観を持ってきただけだよね?ということにも、その時気づいたんですよね。

必死に頑張ってきたつもりだったし、自分は何とか平常心を保っていたつもりだったけど、今振り返ってみると本のタイトルが怖いだなんてやっぱりどこかおかしかったように思います。

とにかくそうして嫌われる勇気を読もうと思った私は、即日で本屋さんに走ったのでした。

読んでみて、どう感じたか?

嫌われる勇気を読んでみて、その感想は、「私が考えていたことと、アドラー心理学がこんなに近いものだったなんて」でした。

私、もっとこの本は、マッチョなことを言ってくると思っていたんです。思い込んでいたんですよね。タイトルのインパクトから。

「嫌われても正しいと思うことをしなさい。他人に流されず、怠けず、周りの人から浮いても嫌われても、正しいことをする。皆がそうすれば、人間社会において間違いは起こらない。

そんなようなことが描いてあるんじゃないかと思い込んでいました。

「とっつきにくい人にも、自分の意見をはっきり言いなさい」とかね。

その思い込みは、ほんのごく序盤で早速打ち壊されることになりました。

この本が言っていたことは、もっと優しくて穏やかなものだったんです。

後で少しあらすじを私なりに解説しますが、この本では、すべての悩みは人間関係に起因する。と断言しています。

親が求めるから頑張る、親が否定してくるから好きなことを我慢する、親の目を気にして、親の反応が気になって、自分の思い通りのことができない。

本に登場する「若者」は、まさに毒親家庭出身の私そのもの。

ところが、「若者」と対話する「哲人」は、この若者が「親が原因で自分はがんじがらめなのだ」という考え方を、「いまこの瞬間から変えていける」と穏やかに断言します。

この二人の対話形式で綴られる嫌われる勇気を読み進めながら、私は自分が毒親と絶縁することを決心した頃のことを思い出しました。

毒親と絶縁をしようと決めたころ、思ったけれど心にしまったことがある

心にしまっておいたこと

それは、まだ実家に住んでいて、毒親のことで毎日悩んでばかりいた頃のこと。

どうして自分はこんなに母から否定されるんだろう?

私ってそんなにダメな人間なの?

「どうしたらいいの?」と母に聞いても、「どうせ何も聞き入れないくせに!」「自分で考えろ!」と突き放されることを繰り返す日々に疲れ切ってしまっていました。

私という人間が、私という人間の感性が、丸ごとダメなのかと思ってしまって、出口のないトンネルを歩いているみたいな気持ちでいたんです。

そもそも、子供のころから、「お前の言うことはわけが分からない」、「お前の考えていることは良く分からない」、「お前はうちの子じゃない(感性が)」と言われ続けていた私は、母や姉こそが正しい人間で、私は不正解の人間、出来損ないの人間という意識を持っていました。

どうしたら正しく慣れるの?こんなに考えても、何をしても否定されるなんて、正しい道に行ける日なんて私には来ないんじゃないか?

そう思っていたんです。

でもね、ふとした瞬間に、こうも思っていたんです。

「そもそも、正しいって何?」

よそのご家庭は私の家よりもずっと自由に、気ままに暮らしていて、それを私はとても不思議に感じていたんです。

「お母さんが正しいから、よそのお母さんたちはみんな間違っているの?」と。

でね、思ったんですよ。

「私は間違っていてもいいから、私の思うようにいきたいな」。

だって、そうでしょ?よそのご家庭のみんなは、私の母がダメと言うことをしているけど怒られていないし、それで楽しそうに笑っている。

正しいか正しくないかはもう分からないけれど、私は楽しいほうへ行きたい!

そう考えて、私というたった一人、私だけの価値案で考えてみたら、正しいと思っていた私の母は、全然楽しそうじゃない。それどころか、子育てに大失敗してるじゃない!私みたいに母を信頼できない娘がいて、姉のように「結婚は墓場」と言って実家に帰省する四十路の娘がいて、弟みたいに実家に寄り付かず、遠方にわざわざ就職して結婚した息子。

なんだ、母だって、唯一無二の正解じゃないじゃないか。

そう思ったら、そのまた母親である祖母も、そんな母を育てたわけなので、正解じゃない。

それどころか、叔父は暴れん坊で昔はよくちゃぶ台をひっくり返していました。叔母はそんな中でもとっても天真爛漫な女性でしたが。

私がそれまで正しい、正解だと思ってきた人たちだって、完全じゃない。正解じゃない。

見ようによっては酷いものなんだ。

だったら、私も不正解のままでいい。

周りから見て不正解でも、自分と自分の周りの人が幸せで笑っていられるならそれでいい。

間違ったまま生きていけばいいんだ!

でもね、人にはそれを言いませんでした。

だって、自分の親や親戚、しかも祖母は故人です。そんな人たちを「彼らは正しくない!」というなんて、やばいやつじゃないですか。

毒親家庭で育った人にこそ読んでみてほしい、嫌われる勇気

私は私のままでいい

間違ったままで生きてもいいじゃないか!

そう思った私の気持ちこそ、嫌われる勇気で哲人が語った、アドラー心理学そのものだと思いました。

アドラー、奇遇だな・・・!(やめとけ)

嫌われる勇気を読んで、誰にも言わなかった私の気持ちを肯定してもらった気持ちになりました。

毒親家庭に育った人にこそ、嫌われる勇気を読んでみてほしい。

優しく引き上げてもらえる感覚になります。

最後に、私なりの嫌われる勇気のあらすじをご紹介します

では最後に、ごく簡単に、嫌われる勇気の紹介をしておきます。

このお話は、終始「青年」と「哲人」との対話形式で進んでいきます。

人生において、生い立ちや両親などの原因によって今現在の自分の可能性が限定されるのだと考える青年が、哲人のもとを訪ねるところから物語はスタートします。

2人は椅子に座って、実にじっくりと語り合います。

原因があるから今が決められるのではない。 現状を維持するという目的のために、理由付けをしているのだと。

これだけ聞くと「は?」ってなりませんか?

難しい哲学書だったらきっと、途中で読むのが嫌になったと思うんです。

でも、青年と哲人は、青年自身の生い立ちや友人の例え話など、身近なことをどんどん話してアドラーの思想を解説し、理解しようとします。

私たちは物語を俯瞰する第三者ではなく、時に青年の友人として、そして時に青年自身として、この物語に参加することができるんです。

私はとっても読んで良かった。

良かったら、読んでみてください。

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