一人息子と二人暮らしのシングルマザーである私、まるは実家と絶縁状態です。
ほぼ絶縁状態になると決めて実家を出てからもう何年も経ちました。
その間、実際この先何十年も、親が死ぬまで絶縁状態でいられるのか、親が死んだときどうしたらいいのか、そもそも絶縁してしまって良かったのか・・・??等々、本当は色んな思いがあったのですが、正直下手につついて面倒なことになるのは困るという気持ちが強くて、気づかないふりを決め込んできました。
今回は、絶縁したつもりの毒親とのその後のエピソードと、私の新しい決意について。
目次
私が毒親である母との決別を決めたのは、息子に害があると感じたから
最初に、私が毒親と絶縁することを決めた理由を振り返っておこうと思います。私が毒親である母との絶縁を決めたのは、息子との生活のためでした。
元々あまり折り合いの良くなかった母と私。
私は3人兄弟の真ん中っ子で、姉と弟がいます。母は私の幼少期からずっと姉と本当に仲が良くて、二人はいつも楽しそうにおしゃべりをしていました。
学校のこと、進路のこと、部活のこと・・・。それこそ私の入る余地がないくらい、ずっと一緒でした。
その分、母とも姉とも性格が全然違っていた私のことは、母には理解できなかったのでしょう。「あんたの考えていることは分からない」とか、「あんたはうちの子じゃない」など、いつも母から言われて育ちました。
今思い返すととんでもない話です。
当時の私も「どうしてお母さんは私にだけ嫌なことを言うの?」と感じていました。
離婚のための別居で実家に戻ることを許容してくれた母
そんな母と私の関係性でしたが、私が離婚を決意したとき、息子と私を実家で受け入れることを母は許してくれました。
当時まだ息子は1歳。仕事はしていた私ですが、当時は営業職で学童保育の終わる時間に帰宅することが難しく、実家の厄介になることができたことを心からありがたいと感じました。今思えば、それ自体が間違いだったんですけどね。でも、本当に感謝はしています。今も。
母はなんでも家の中が思い通りにならないと気が済まない人
毒親である母は、家の王様。
なんでも家の中のことは母が決めますし、思い通りにならないと気が済まないタイプの人です。
外ではそんなことは全然なくて、おしとやかな淑女そのものですが家の中でのギャップがすごいんです。
ストレスをため込んではヒステリーを起こしてしまう毒母は、折り合いの悪い私の言動が特に気になってしまうようでした。
私が息子に小言を言ったりすると必ず飛んできて、大声で私に「お前が悪いんだ。お前がおかしいんだ」とまくし立てました。まだ小さかった息子に私の悪口を言うのも日常茶飯事。
そして、たちが悪いことに毒母はいつも息子の前で私を責め立てました。毒母は、人にわざわざ意地悪をするような人ではありません。そうではなく、本気で私という、「何から何まで一事が万事、すべて間違っている」馬鹿な娘が、毒母の大切な孫に間違ったことを吹聴することを防ごうという、100%正義感からそうしていたんだと思います。
そう。本当に毒母の中では、私という人間は救いようのない大バカ者にしか見えていないようでした。
このままでは私たち親子は生きていけないと思って、引っ越しを決めた
そんな風にして、来る日も来る日も否定の言葉を頂戴していた私は、実家に帰って1年たつ頃にはすっかり疲れ切ってしまいました。
慢性的に胃が痛み、毒母の前で口を開くのが怖いと感じるようになっていました。息子も息子で、毒母である祖母がいつも母(私)のことを否定しているので、すっかりそれをまねるようになりました。
息子は2歳を迎えることには面白くないことがあるとすぐに、「お母さんのせいだ!」「お母さんが悪いんだ!」と喚き散らして泣くようになり、一層私の気持ちを追い込みました。このままでは私はもう息子と生きていけない。苦しい。逃げたい。
そんな気持ちでいっぱいになった私は、コップの水があふれるように、その気持ちを爆発させ、ものすごく強引に引っ越しを決めたのでした。「出ていくのなら絶縁」と言ったのは母だった
引っ越しも新しい保育園もと、報告もちゃんとせず、黙って準備を進める私に毒母は根掘り葉掘り質問しましたが、そのころには私の精神状態は限界で、まともに毒母と話すことすら苦痛に感じるようになっていました。
必要最低限の受け答えだけして(毒母からしたら全然足りませんが)、もう少し我慢すれば自由になれる。もう少し我慢すれば否定されずに生活できる。それを心の中で唱えて引っ越しまでの数週間を乗り切りました。
毒母はそんな私に益々イラつき、言いました。「出ていくのなら二度と戻ってくるな。孫は戻ってきてもいい。でも一人で戻せ。お前は二度とこの家に戻れると思うな。絶縁すると思え。」
なんてね。そんなことが言える関係性なら、むしろ絶縁するようなことにはならなかったはずなんです。
実家住まいの間、毒母にストレスがたまるたびに諸悪の根源として扱われてきた私には、「分かった」と一言堪えるだけで精いっぱいでした。
いいんです。それでも。私自身、母と絶縁すると心の中で決めて引っ越しをすることにしたので。
そんな風にして私は実家を脱出したのでした。
実家と絶縁状態になって、我が家は落ち着きを取り戻した
毒親から絶縁を言い渡され、逃げるようにして実家を出た私と息子は、アパートに移り住みました。
息子は当時、毒母の影響をありありと受けていて、ちょっとしたことも全部私を責めては泣きわめく日々でしたが、親子二人での生活の中、だんだんと穏やかさを取り戻していきました。荒れていた息子は少しずつ穏やかになった
今思えば、息子の当時の癇癪や気象の粗さも、もしかしたら発達障害の症状の一つだったのかもしれません。
だけど、当時は私も毒親からの洗脳ともいえる叱責を受け続けて、息子に何かがあるという思考回路に慣れなかったんですよね。
息子がこんな風に癇癪を起したり、感情をコントロールできずに泣きわめくのは、私が親としてなっていないから?おかしいから?と、絶縁したはずの毒親から言われ続けた言葉を、頭の中で反芻する日々。
でもちょっとずつ時間をかけて、私と息子は二人での生活のリズムを整えて、徐々に落ち着いていきました。
息子も引っ越しから1年もたつ頃には、「お母さんのせいだ」という決め台詞を吐くことがなくなり、二人で笑顔で過ごせる時間がどんどん増えていきました。
私を否定する人がいない環境に感謝した
私自身も実家にいたときは息子と話していると必ず割って入ってくるか、遠くの方でブツブツと私の文句を言っている毒親がいないことで、落ち着いてゆっくりと息子に向き合うことができるようになりました。もちろん、難しい所のある息子なので、なんでも順調に行ったなんてことはありません。むしろなんでもかんでもつまずきまくりの我が家。
でもうまくいかないことも、ゆっくり何日もかけて二人で向き合うことができる環境になったことで、私たちは親子としての関係性を取り戻していきました。
当たり前のことなのだけど、息子と話しているときに割って入ってくる人がいないことや、息子の目の前で私のことを否定する毒親がそこにいないことに、本当に感謝しました。
我が家の状態は「半絶縁」状態
そんな風にして別れた母と私。今は半絶縁状態。完全に絶縁したというわけではありません。
そもそも、法的にも完全に親子が絶縁するという制度はないので、絶縁の定義も良くは分かっていませんが。
息子はたまに一人で泊りに行く
何故、あんなに離れたかった毒親との絶縁が、反絶縁状態なのかというと、それは息子のため。私にとっては毒親である母も、息子にとっては甘々の優しい祖母です。
要は毒母の攻撃対象として認識されていない人にとっては、母は何ら普通の人。むしろ、常識があってとってもいい人です。
そんな毒母のところへ、息子は今でもたまに一人でお泊りに行きます。私は行きません。息子だけ。
完全な絶縁状態にはこだわっていない
息子がお泊りに行くことを、内心私がどう思っているか・・・?
私は、毒親と一緒にいると苦しいから絶縁しようと決心したけれど、毒母のことを心の底から憎んでいるとか、息子に会わせてやらないとか、そんなことまで考えているわけではありません。
私が毒親と距離をしっかり保って、傷つけられずに生活できることが大切なのであって、絶縁すること自体が目的なのではありません。だから、息子がじいちゃんばあちゃんに会いたいというものを止めるような気持ちは全然ありません。
半絶縁から4年たって、事は起きた!
そんな風にして、貧しいながらも楽しく暮らしてきた我が家。この4年間で、息子との絆も益々固くなったと思うし、息子の難しさにも気づくこと、向き合うことができるようになってきて、私としては嬉しい限りです。
ところが、そんな我が家に今回、久しぶりに毒親が関わる事件が起きたんです。
それは息子の1本の電話から
それは息子が毒親にかけた1本の電話から始まりました。
私は息子がおばあちゃんに電話したいと言えば、その日の夜にかけさせていますので、息子はほぼ自由に祖父母に連絡をすることができます。
事はその電話で起こりました。
息子のADHDを絶縁した毒母に知られた!
電話口で、息子は何の気なしに毒親に伝えました。
「僕ねえ、この前病院でテストをして、学校をお休みしたんだよ。」
息子には、発達障害やADHDは、恥ずかしいことではない。そして珍しいことでもない。忘れ物が多かったり、じっと座っていられないのは、息子の性格であり、癖なのだと説明しています。
その癖があると、授業をちゃんと聞けなくて困るでしょう?その癖のせいで、忘れ物をして恥ずかしい思いをしたことがたくさんあるでしょう?困ったり、恥ずかしかったりするのはないほうが嬉しいから、癖を弱くするアドバイスをもらいに病院に行くんだよ。
そう話しています。
恥ずかしいことではないから、息子にはADHDのことを「人に言うな」とも言っていません。
これはこれからずっと言いませんという意味ではなくて、息子自身がそのこと自体を人に言いたいのか言いたくないのか、そのあたりを観察している期間とでもいうのでしょうか?
ともかく、そんな風にして、私は息子がADHDのことや発達障害のことを口にすることを止めていないので、これは想定の範囲内。
いずれは毒親の耳に入るだろうと思っていました。
こんなに早いとは思っていませんでしたけどね。
ADHDへの認識のちがい
発達障害やADHDについて、私の認識はこうです。
発達障害、ADHDは特別なことではないと思うんです。ちょっと変わっている、ちょっと難しいところがある人がより良く暮らすための術を持つために必要な情報を整理するために細かく名前を付けて分類したので、数十年前よりも現在の方が細かな障害名が認識されるようになったけれど、実は昔からあったものだし、特別な人や症状ではない。ちょっと難しい人だし、ちょっと難しいだけの症状なんだよね。
ところが、毒親である私の母の見解はこうでした。
発達障害なんて、大ごとじゃないか。軽々しく病院にかかるなんて、これからの孫の生活をなんだと思ってるんだ。そもそもどうして病院に行く前に相談がないのか。お前(私)の勘違いではないのか?一生にかかわることなんだから、勝手なことをするな。
そう。孫のことに至るまで、毒母は私の生活を支配したいんですよね。
だから、「勝手に」判断したことが許せないんです。
それが毒母です。
毒母と私は、絶対に譲れない考え方が真逆だった
勝手も何も、絶縁した毒親の言うことなので放っておくのですが、私と毒母の見解の違い、考え方の違いに、私たちの性格の違いがよく表れているなと感じました。毒親は、発達障害というレッテルを張られることで、息子の今後の生活に不利益があってはいけない。だから隠したほうがいいという考え方です。それだけ発達障害というものを「怖いもの」と認識しているんですよね。
対して私は、発達障害は特別なものではないから、恐れるものではない。むしろ、本人が過ごしやすくあるためにはできる範囲でオープンにして、「普通のこと」として扱った方がいい。そう思っています。
真逆ですね。真逆ですし、毒母の世間体を気にしたり、発達障害に対する嫌悪感を私は受け入れることができません。
実は、10年ほど前に、毒母は発達障害について調べていた時期があるんです。それはなぜかというと、父のことを発達障害と疑っていたから。
私の両親はものすごく仲が悪い、仲が悪いというか、家の中の王様である毒母から父は空気の扱いを受けていて、発言や行動にかなりの制限を強いられています。
おそらく母は、その時の知識から発達障害のことを忌むべきものとして認識したのでしょう。
だから、「私の孫ちゃんが発達障害で、クソ夫と同じなわけはない!そんなことになったら大変だ!絶対に否定しなければ!」という気持ちになっているんでしょうね。
どちらが息子にとって利益か。私は絶対にここは譲れません。譲りません。何を言われようがそこは譲れない。それが親ですよね。改めて毒親を実感した私の、今後の対応は?
毒親である母の言葉を聞いて、改めて私が感じたことは何か?
それは、「絶縁して良かった。実家を離れて良かったな。」でした。息子のために譲れない、今現在のADHDへの対応について、物理的な距離のある今は毒親に手出しはほぼできません。
実家にいたころのように、私の行く先々全部についてきて、私を否定し続けることはもう彼女にはできないんです。
これからも、毒親には会わない
だから、今回息子の口からADHDのこと、発達障害のことがバレたけれども、私の対応はこれまでと何ら変わりません。
これまでと同様に、とにかく会わない。私は連絡をしない。
私が子育てやADHDについて教えを乞うのは、私のことを逐一否定してこない、病院や療育施設の先生方です。毒親ではない。
もちろん、息子が祖父母と会いたいと言うなら、それをちゃんとかなえてやろうというのも変わりません。
毒親と絶縁したその後の生活は平和なのか?
もの別れになったし、二度と会わないくらいの果てしない心の距離を取ってしまった毒親と私ですが、私は毒親のことを憎んではいません。恨んでもいません。
どちらかというと、離婚の時に受け入れてくれたことを今も感謝しています。
毒母から好かれていない。ストレスのはけ口になっている。そのあたりは本当に悲しいと思っています。
でも、それで毒親を憎む気持ちにはなりません。
私は、毒親と心身共にしっかり距離を取って、関わり合いにならずにいられればそれでいいです。たまに連絡を取らなくてはならないくらいは我慢できます。親子だから、親にもしものことがあったとき、結局無関係ではいられないだろうし、毒母目線で見たら相当な親不孝をしているので、毒母の身に何かあったときには姉からボロカスに責められることでしょう。
死に際には顔を見せてもらえなかったりするかもしれませんね。でも、それでいいんです。
今、毒親と隔たれた生活をできていて、とっても平和に暮らせている。それが一番大事な事。
たまに連絡を取り合うことがあっても、日ごろ離れているということが私には一番大切なことです。これからも、この距離感を保って我が家は我が家の平和を保っていきたいと思っています。