毒親と絶縁したい!それを実現するために失うものは?

あなたは生き辛さを感じたことはありますか?それはなぜ感じたのでしょうか?

今回はシングルマザーで意外と悩んでいる人が多い「毒親」のお話。毒親とは、子供の人生を様々な方法で支配しようとする親の俗語で、近年よく耳にするようになりました。毒親によって育てられた子供は、人間関係の構築や人生の選択において、生き辛さを感じることが多いようです。

このブログの運営者であるまるも毒親に悩む子の一人です。私の場合、表立って毒親と思われるのは母親です。母は家の中が自分の思う通りになることに満足を感じる人です。その点で、私は昔から母の思惑とは違う人生を歩んできてしまいましたから、母としたら面白くない存在だったのでしょう。私は子供時分から人格面を疑問視するような表現をよくされてきました。「あんたの言うことは分からない」「あんたはうちの子じゃない」とよく言われて育ちました。私には姉がいるのですが、姉は母と本当によくウマが合い、二人はいつも一緒にいて姉の学校のことや部活のこと、進路のことなどを常に話していました。母は姉のことが手に取るように分かる分だけ、妹である私のことは理解できない奇怪な存在に感じていたことでしょう。それを言葉にしてしまっていたのだと、自分が大人になった今は感じています。

私は幼少期、母親がこっちを向いてくれないことに対して寂しさを感じていました。母の注意を引きたい、姉と話すのと同じように私とも話をしてほしい。でも、その時間はあまりありませんでした。母の横には常に姉がいましたし、母は私とコミュニケーションが十分にとれていないことについて気付いてはいないようでした。たまに母と話せる時間があると「あれもこれも話さなくては」と焦ってしまい、話がまとまらずに結局「あんたの話は分からない」と打ち切られてしまいました。

余談ですが、高校生になったころ、中学までとは違い、私の姉のこと、家のことを知らない新しい友人ができると、この友人たちとじっくり付き合いたいという気持ちが強くなり、自然と相手に伝わる話し方を考えるようになりました。そうして私の話術(といえるほどのものではありませんが)は発達してきたんです。

母は自分の思い通りにならないといけない性格であったからか、父との関係は冷え切っていました。父は仕事人間で家庭よりも仕事に楽しみを見出している節がありましたから、母としては面白くなかったのでしょう。幼少期から父の悪口をたくさん聞きました。子供時分母からの注目を集めたかった私は、せっせと父のことを悪く言いました。今にして思い返せばさもしい子供です。ですが、当時は父の悪口だけはすんなりと話すことができました。母が言った通りのことを主語を置き換えるだけでよかったからです。母はそんな風に父のことを悪く言う私を叱りました。私を叱ることで、自分を正当化していたのかもしれません。後になって母が昔、自分が父のことを毎日のように悪く言っていたことを覚えておらず、「ずっと我慢し続けた良き母」だと思っていることを知りました。私はもしかしたら、母の記憶の捏造に一役買ってしまったのかもしれませんね。

そのような家庭で育った私は、大学に入るころにはただひたすらに家を出ることだけを目標にするようになりました。ほかに興味のあることはなかなかできませんでした。そんな私でしたので、受験勉強などにも全く身が入らず、毎日をぼんやりと過ごしていました。もともとそんなに勉強が不得意ということもありませんでしたから、滑り止めの大学に入って家を出るに至りました。一度出てしまえば自分のことを否定する母はいないし、母が私に興味がないことを認識しなくてもいいしいいことづくめで、すっかり私は家に寄り付かなくなりました。

そんな私が実家に戻ることになったきっかけは、離婚。別居を開始するにあたって、息子と一緒に実家に厄介になることにしました。今思えばこれがよくなかったわけですが、当時は本当にありがたかったし、うまくやりたいと思っていました。

実家に出戻ってしばらくはうまくいっていた親子関係ですが、徐々に母の支配欲が強くなっていきました。私の息子のしつけや着るものにまで口を出し、「今日は肌着を着せるのは熱い」もしくは「寒い」と、一度私が着せた洋服を脱がせては自分の選んだものを着せることもよくありました。

エスカレートしてくると、私が息子に小言を言うたびに、私にぎりぎり聞こえる程度の音量で「お前だって満足にできていないくせに」などと文句を言ったり、口をはさみに来ては「お前が全部悪い」「お前の言い方がおかしい」と怒鳴るようになりました。私は家にいる間のストレスに悩みました。息子も、私が常に母からそのような言われ方をしていたためか「お母さんが悪いんだ」「お母さんのせいだ」と何かにつけてひっくり返っては泣き叫び、母になつくようになりました。

そのころには毎日のように胃の痛みに悩むようになり、息子との関係もうまくいかず、毎日つらいと感じる日々でした。母は家族の行事には私を参加させましたが、決して話しかけたりはせず、空気として扱いました。私は息子を母に取られた気がして、どんどん気持ちが離れていきました。

母は私に「私の言うことを聞かないから孫がおかしくなるんだ。孫がこんな風におかしくなったのはお前のせいだ」と毎日のように言いました。そのくせ私が、どうしたら正しい行いができるのか教えてほしいと言うと、「どうせ聞く気もないくせに」「自分で考えろ」と突き放すことを繰り返しました。私は昔からの刷り込みか、「悪いのは私」「どうしたら母の言う正しい親になれるのか」「きっとこれまでに言われたことに答えがあるのだ。思い出さなくては」とぐるぐると思い悩みました。

そしてある時プツンと切れてしまったんですね。「あ、もう駄目だ。もう駄目になる。もういらない。家出よ。」そうして絶縁だの孫しか敷居をまたがせないだの騒ぐ母をすべて無視して家を出てアパートを借りたのでした。

家を出て1年間は仕事をしてもしてもお金が貯まらないし、息子も先述の通りすぐにひっくり返っては「お母さんのせいだ」とわめき散らすしで大変に感じることもありましたが、息子が落ち着いてくるとともに生活も上向いてきました。家を出てからすでに数年経ちましたが、私は実家に足を踏み入れなくなりました。息子が行きたいというときには止めませんが、私自身は親が死ぬまでもうまともに言葉を交わす気はありません。それがお互いのためにとってベストだと思うからです。

ところが法事など親戚の集まりとなるとまだ踏ん切りがついていないことに気づきました。私は母との関係が子供時分からさみしいものであった代わりか、祖父母と叔父叔母にはとてもなついていました。祖父母はすでに亡くなりましたが、叔父叔母ともう会えないことはさみしいと感じます。ですが、そのために母と顔を合わせなくてはならない。母から一方的な話を聞いているであろう叔父叔母から叱責を受けることも目に見えている。なのにわざわざ出向いていくのか?と。

もちろん、それでも叔父叔母に会いたいならそうしたらいいのです。ですが、私が一番大切にしたいものは「息子との平穏な生活」です。サンドバッグにされるとわかっているのにノコノコと出かけていくのは私の大切なもののためには必要ではありません。そう考えて、私は親戚との関係もあきらめることにしました。

きっともっと私が年を取って、親や叔父叔母が亡くなるころになったらさらに悩むのでしょう。私は決断しなくてはいけません。完全に関係を断ち切って生きていくのか、面の皮の厚さを鍛えて、何を言われても知らんふりできる精神rひょくを身につけるのかを。私は納得しなくてはいけません。それが私が持った宿命のようなものなのだと。

私は親孝行な娘にはなれませんでした。離婚しているうえ、実の親ともうまくいかないなんて、自分は欠陥人間だとよく考えました。今もそう思っています。ですが、人の親としての今の自分は、もうそれでもかまわないのです。欠陥人間である私が息子を幸せにするためには私自身が幸せでいるのがいいのだと、今の私はそう思っているのです。だから、その幸せのために邪魔になるなら親だろうが親戚だろうが距離を置いて、できるだけ遠くに離れておこうと思っているんです。

間違っていると言われるでしょう。自分でも正しい選択とは思いません。でも、これが今の私が精いっぱい悩んで苦しんで出した結論です。この選択をした自分のことを、私自身が支持できているので、これでいいと感じています。

とても長くなりました。今回は私信となりました。どなたかに共感いただけたり、参考になったら嬉しいです。

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